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想い

1月22日。
2歳下の妹が亡くなりました。








12年前に助からないと言われた病から生還。
10年前に初孫が誕生し、その成長を楽しみに生き延びて来ました。

ここ数年は居場所が分からず
2年前に近くのスーパーで偶然出会ったのが最後でした。

妹の訃報は実家の(高知)兄からでした。
妹の二男から電話を貰ったけど詳細が分からないと。
一番近くに居る私には何の連絡も無かったので
実感もわかず、詳しい事が分かったら知らせて!
と電話を切りました。

その1時間後、三重にいる姉から連絡を貰いました。
姉に電話したのは妹の長男。
姉は私に連絡入れとかなアカンで、と言ったものの
様々の事情で私達夫婦に迷惑をかけているので
私には連絡しづらいと・・・。
私も養母の事でてんてこ舞いだったので
連絡ない場合は知らんよと答えました。
「アンタもそう言わんとなぁ、何かあったらアンタが頼りやから。」


それは分かっている・・・。
私だって悲しい訳じゃない。
ただ、妹の息子達から直接電話を貰わない事には
動けないし、とにかく実感が湧かない・・・。

帰社してすぐ妹の三男坊から電話がありました。
お久しぶりですの挨拶の後、
これから葬儀場へ向かうからと。
場所は私の自宅から車で5分程の所。
まだ何も決まっていないし
私としても、これから入力作業があるので
すぐに帰る訳にはいかないという事で
なるべく早く行くからと伝えて切りました。
そこで、やっと涙が溢れ出し
階段の踊り場から下りて
少しの間、涙を拭って。。。
スタッフが三々五々帰って来たので
いつまでも泣いている訳にもいかない。


葬儀場へ駆けつけたのは8時頃。
通夜、葬儀の時間、その他の打ち合わせは
長男がすでに済ませていました。
何年ぶりやろ、甥っ子達と会うのは・・・。
妹と対面し・・・。





眠っているような安らかな顔をしていました。
苦しかった闘病から解放され
12年前に亡くなった実父の元へ旅立てる。
発病したのは実父が亡くなった半年後。
ICUで40日。
意識があると耐えられない治療なので
軽い睡眠薬を導入していて
眠り続ける妹を毎日見に行ってましたっけ。

この一週間がヤマです。
行くたびに変わらぬ耐える時間。
そこから奇蹟の生還。

目覚めて話が出来るようになった時
「いっぱい知り合いの葬式出して来たわ。
 それで皆で船に乗って向こう岸へ向かっていたら
 お父ちゃんが出て来て『お前、何でここにおるんや!
 はよ帰れ!』て怒られて(笑)目が覚めたらここにおったわ」

呑気な妹らしい夢の話に妹の息子達と
涙を流しながら笑ったものです。

多分・・・。
娘の闘病があまりにも長すぎ
父もそろそろいいんじゃないかと
お迎えに来たのではないかと・・・。
ワシも寂しくなったから酒の相手にと
妹を呼び寄せたのでしょう。
この一月は父の十三回忌だったのです。

棺には妹の財布にボロボロになって
入っていた父の写真を一緒に入れました。
孫の写真も入れてあげたかったけれども
「一緒に連れて行く」
との説話もあるようなので断念。

最期の時は息子達は間に合わず
二男の嫁が自分の5歳の娘と
妹が育てた10歳になる孫を引き合わせてくれたようです。



小さなお葬式でした。
友達は多い妹でしたが、この数年は付き合いもなく
私も共通の友達はいるものの
知らせる事なく済ませました。
認知症の進む実母は狭心症で
長距離移動が難しいだろうと参列は見合わせました。

ただ・・・。
妹の別れた主人には長男から知らせ
通夜・葬儀・火葬場までと最後まで見送って貰いました。
お骨も息子達と孫と共に拾って。。。

色々な葛藤や恨みも憎しみも
全て流して欲しい。

妹が育てた孫はお骨になった「ばぁば」に
戸惑いを隠せず後ろで黙って涙を流していました。


妹に最後に会ったのは2年前。
孫が一年生になった頃。
近くのスーパーの駐車場で偶然の出会いでした。
少しの間、どこにいるのかの話やら
実母の認知症の進み具合とかを話して。

最期まで優しい姉にはなれなかった・・・。

何度となく諭しても聞きいれて貰えなかった妹に
最期まで・・・優しい言葉をかけてあげられなかった・・・。

棺の中の妹に遅過ぎた言葉を伝えました。

「もう苦しまなくていいから。ゆっくり眠って・・・。
 もう誰にも怒られなくて済むから・・・・・・・・・・」


妹が亡くなって哀しい事は勿論の事・・・。
守ってあげられなかった事への悔やむ心の方が強くて・・・。

ただただ、安らかに。
妹の冥福を祈っています。










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